映画「ひつじ村の兄弟」生きる糧とは何だろう

12月19日から新宿武蔵野館を始め、全国に順次公開予定のアイスランド映画『ひつじ村の兄弟』試写会に行きました。
主人公である羊飼いのグミーは養羊に彼の人生を捧げています。ある日、同じく養羊場を営んでいる兄の羊に疫病の発症が発覚し、村の羊全頭殺処分の指令が下ります。グミーの取った決断とは、そして40年もの間口をきかず仲たがいしたままの兄との関係はどうなるのか。
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映画の冒頭はワイドなスクリーン全体に広がるアイスランドの風景。手前には米粒のように点々と羊の姿が見え、その自然がどれほど広大なのか実感を持って伝わってきます。次にこの物語の主人公であるひげもじゃの初老の男グミーがひつじに頬づりしながら声をかけているシーン。ひしひしと伝わってくるのは、彼の羊に対する深い愛情。
うちには一匹の雌猫がいます。彼女は、もちろん、人間の言葉を話すことが出来ないので、こちらから色々と察してあげなければいけません。しんどそうにしていないか、ご飯はちゃんと食べているか、トイレの様子はどうか、爪は伸びていないか、目やにを拭いてあげなければ、換毛期だからブラッシングをしないと毛が胃に溜まってしまう…。猫は何も返してくれませんが(むしろ迷惑そうですが)そうやって世話をすると何故か私の方が満ち足りていくのを感じます。スケールがあまりにも違いますが、グミーと羊たちを観ていると、彼も同じように充実感を得ているのではないかと思えてきます。
物語が進むにつれ、グミーには40年間絶縁状態の兄であるキディー以外は家族がいない事も分かってきます。2人の仲たがいの原因は分かりませんが、父親がキディーに牧場を譲らなかったこと、キディーのいささかエキセントリックな行動、むしろ弟のグミーがキディーを避けている様子があることから、どうやら兄の方に何かしら問題があるようです。
ふと、自分が映画を観ているためか「映画館なんてあるのかしら」と頭に浮かびました。「映画館どころか、買い物が楽しめる場所、美味しいレストラン、雰囲気の良いカフェ、ちょっと立ち寄る飲み屋なんて近くにあるのかしら」。きっと街まで遠く離れていて、娯楽場所は無いんだろうな。
既に殺処分をした農夫仲間が「退屈だ」と漏らすシーンが語るように、羊の世話は何も無い村での娯楽でもあり、暮らしの全て。疫病で羊を殺処分しなければいけない、それはグミーにとって、そして兄のキディーにとっても、生活の糧(収入)を絶たれるだけでなく、自らの手で愛情の対象と同時に家族を葬る行為であり、また先祖代々引き継いだ羊の種を絶やすのは土地とのつながりを失い、心の糧を無くす事を意味していました。
その絶望感からグミーは、真面目で誠実な人柄から考えられないような計画を立てます。計画の実現のため避け続けてきた兄の助けが必要となり、長い、長い断絶を打ち切って羊を守る二人の力を合わせた非常識な行動へとつながっていくのです。
その行動の行方はどうなるのか。それは羊という共通の情熱の対象をもって、気の合わない兄弟が絆を取り戻すまでの物語。映画が始まってすぐに、村に起こった災いを徐々に盛り上げ、よどむこと無く緊張感を持って描き、結末まで全く飽きさせませんでした。
聖書のよく知られた言葉に「人はパンのみにて生くるにあらず」とあります。あまり知られていない続きは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。そういえば羊はキリスト教ではイエス・キリストの象徴でした。決して”ほのぼの”なストーリではありませんが、生きる糧について考えさせられ、心に深く響くでしょう。未年の締めくくりにいかがでしょうか。

ところで家畜である羊はもちろん彼らの食糧でもあります。日常の食事に、そしてクリスマスのご馳走に。
クリスマスの日にはきちんとネクタイを締め、羊肉のローストと付け合わせを作り、ツリーを飾り、キャンドルに火をともして、たった一人ディナーを食べるグミー。普段の破れたシャツを着て、大量に作り置きした羊のスープを温めて食べるだけのつつましい暮らしとのコントラストが素晴らしい。
ここ何年もお正月と言っても雑煮以外作らなくなっていることに反省しました。来年は少しはお正月らしいものを作ろうかしら。
ミタ
グミーの育った家はキディーに譲り、自分の住む家は別に建てたことが、物語の途中で示唆されます。グミーの家には1978年のカレンダータペストリーがかけっ放しになっていて、壁紙は70年代のレトロデザイン。ああ、きっと兄との関係が断絶したのは、この頃なんだなあと、それらの小物が教えてくれました。そんな発見も楽しい。

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