『戦争の子供』が描いた大倫の花

今年に入ってから、買い付けに行かず、入荷が少なく、外出もしないので、ブログのネタがなくなかなか更新が出来ません。入荷が少ないと言っても、ボチボチ少しずつ入ってきていて、それらは来年の2021年に向けてキツツキのように貯め込んでいます。お楽しみになさってください。

さて、布に関してはもう10年以上もスウェーデンのエヴァさんがいつも私が好きそうなものを見つけては送ってくれるので、途切れることなく入ってきています。(とはいえエヴァさんもお年で、ペースは落ちていますが。)その中にどこかで見たことのあるバラの柄の布がありました。記憶を探って、あった、あった。

2015年のレトロマガジンで特集組まれていた、Ritva Wahlströmの作品。

彼女の代表作の一つ『Törnrosa』です。

Ritva Wahlströmの履歴を読むと、1938年ヘルシンキ生まれとあります。フィンランド人が職を求めてスウェーデンに来ることは珍しくはないので、彼女もそうなんだなあと思いつつ、翻訳した記事を続けて読むと、さらっと「戦争の子供(krigsbarn)として」スウェーデンの養父母の元にきたとあり、はっとしました。

1939年にソ連(現:ロシア)とフィンランドとの間に始まった冬戦争は苛烈を極め、22,000人の死者と45,000人の負傷者を出しました。そこでスウェーデンはフィンランドの子供たちをスウェーデンに避難させる政策を取り、1939年から44年の間に約8万人の子供たちがスウェーデンの養護施設などへ預けられました。

フィンランドのトゥルクからストックホルムへと送られる子供たち

戦後、ほとんどの子供たちはフィンランドへと帰国しましたが、7000人以上の子供たちはそのままスウェーデンに留まりました。留まった理由は様々で、子供たちがスウェーデン化して帰りたがらない場合もあれば、養父母がすっかり愛情を抱くようになり返したがらなかったりもあったそう。もしかしたら帰る家がなかった子もいたのかも知れません。

Ritvaがスウェーデンに残った理由は書かれていませんでした。彼女の生年からかなり幼い時にスウェーデンに来たのでしょう(上の写真でも右端の女性はとても幼い子供を抱いているようです)。彼女は養父母の元で充分な教育と環境を与えられて育ったようなので、もしかしたら幼い彼女に強い愛情を持った養父母が返さなかったのかも知れません。

Ritvaは18才になるとストックホルムの芸術工芸大学、コンストファックでイラストや彫刻を学び、フリーのデザイナーとして独立しました。様々な有名メーカーにデザインを提供し、結婚もして、夫と独立事務所「Riva Disign」を設立しました。今でもご存命のはず。

余談になりますが、2015年の欧州難民危機の際に多くの難民を受け入れたスウェーデンに比べ、消極的であったフィンランドに対し「戦争中に多くのフィンランドの子供たちが受け入れられたのを忘れたのか」と批判したスウェーデンの記事を読んだことがあります。これに対してフィンランドの答えは書かれていませんでしたが。

余談ついでにもう一つ。「戦争の子供」は隣国ノルウェーでは意味が違ってきます。ナチスドイツは”アーリア人増殖のため”に半ば強制的にノルウェー人女性を施設に連れてきて、ドイツ人ナチ党員との子供を作らせました。生まれた子供の数は約12000人と言われ、母親から引き離され施設で育てられる子供たちも多く、終戦後、子供たちは知能が低いと決めつけられ知的障害者施設に入れられたり、迫害や暴力など様々な差別を受けることになります。スウェーデンのポップミュージックグループABBAのアンニ=フリッド・リングスタッドもノルウェーの戦争の子供で、迫害を逃れスウェーデンに移住したとか。これは有名なノルウェーとドイツの黒歴史なので、お調べになったらいくつも資料が見つかると思います。

さて、こちらのクロスは12月17日に新着としてアップ予定。少し先になりますが、どうぞお楽しみに。

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