自由な環境が生んだ美しい作品

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この美しい青の濃淡を見せる花と鳥の置物は同じ作者によるものです。
その作者とは1960年代のアイコンともいえるユニークなフォルムのティーポット「POP」を作り出した、Inger Persson(インゲル・ぺルション)(1936-)。

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写真:Rörstrand Museun

これはロールストランド美術館からお借りしたPOPの写真です。美術館の1960年代の歴史を綴ったサイトページでこの写真が使われている事からも、いかに重要な作品なのかが伺えます。
Rörstrand Museun 1960-tal

POPは潰れた状態で窯から出てきたティーポットからPerssonが発想して作り出した、というのは有名な話ですので、皆さんもこのエピソードをどこかで目にしたことがあるかと思います。彼女はこのシリーズの成功で、インゲル・ポップ・ぺルションと呼ばれていると、スウェーデンのアンティークショップで聞きました。


さて、以前Sylvia Leuchovius(シルヴィア・レウショヴィウス)について、このフクヤ通信で取り上げたとき、1971年にロールストランドはデザイナーの解雇を行ったけれど、その理由はまた調べます、と書きました。
戦後に夢を作ったデザイナー

今回のオブジェ入荷をきっかけに、今一度作者のInger Perssonについて調べていると今年(2011年)の1月にロールストランド美術館で開催された彼女の展覧会についての資料の中で、たまたまその理由が見つかりました。
1964年ロールストランド社はUpsala-Ekebyに買収されます。そして1971年、Upsala-Ekebyはリストラを敢行し、約200名の従業員を解雇しました。同社のリストラの方針の一つに「デザイナーを抱えない」があり、所属デザイナーたちの多くは他の従業員たちと同じく解雇。
そのデザイナーたちには、先に書いたSylvia Leuchovius(シルヴィア・レウショヴィウス)の他に、たった数年前の1968年に発表したPOPシリーズが爆発的に売れていたInger Persson(インゲル・ぺルション)、そして同じく人気シリーズを多く作っていたMarianne Westman(マリアンヌ・ウエストマン)も含まれていました。

そういえば、去年フクヤ通信でBlå Eldシリーズを取り上げたとき、デザイナーのHertha Bengtsson(ヘルサ・ベングトソン)はロールストランドがUpsala-Ekebyグループに吸収された1964年に「いい時代が終わった」と同社を辞め、現Höganäs Karamikに移った話を書きました。
流れる青い火

当時、ベングトソンは早くも不穏な空気を感じていたのでしょう。
幸いペルションはフリーランスとなった後も国外のメーカーにデザイン提供の仕事もあり、また陶芸の教師としての職を得たそうです。教職が性格に合っていたのか、大変に楽しみ、実に25年間も生徒たちの指導にあたったとか。晴天の霹靂の解雇から意外な天職を発見したのですね。
1982年、ロールストランドは当時Arabia(アラビア)も所有していたフィンランドのWärtsilä社に買収されます。Wärtsilä社の方針は「デザインやアートに投資する」であったため、再びデザイナーたちは息を吹き返し、ペルションもロールストランドに戻ります。

ロールストランド美術館の言葉を借りれば、1971年から1982年は同社において「失われた10年(förlorat årtionde)」という苦い歴史の1ページでした。

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さて、ロールストランドの歴史の話が長くなり、すっかりこの作品に触れることを忘れていました。

こちらは、先に書いたとおり、Inger Perssonがロールストランドのアート部門で作ったオブジェです。丁寧に手で形作った作品は指の跡も感じるほどで、温かみがあり、量産品とは異なる魅力に溢れています。
ところで、アート部門といえばフィンランドのアラビアが有名ですね。1932年にアラビアに作られたアート部門は「100%作家の自由な創作」が特徴で、現在も選ばれたデザイナーたちに個室を与え、自由に作品を作る場を提供しています。
実は以前アラビアを見学したときに案内をしてくださった職員の方に「アート部門で作られた作品はアラビアの製品になるのですか?」「なるときもあれば、ならないときもあります」「もしかしたら企業の利益にならないかもしれない事に場所とお金を提供しているのですか?」「そうです」との会話を交わしたことがあります。
その企業姿勢には驚きを感じたのですが、考えてみればこのオブジェたちのような伸び伸びとした作品は、そのような環境だったからこそ産まれたものなのかも知れません。
一方で1960年代に既に経営悪化していたUpsala-Ekebyがデザイナーたちを抱える事を無駄と結論づけたのは理解できます。けれども、この場合はどうやら良い結末とはならなかったようです(結局1973年に閉鎖、1980年代まで工場だけ運営)。

もちろん、今は結果を知っているから何でも言えますが、つくづく判断というものは難しいですね。
ミタ

現在、北欧では”企業デザイナー”というのはあまり存在していないそうです

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