母がどんな人か知って欲しい・・・Ullasの話

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おはようございます。
先日スウェーデンから沢山のビンテージクロスが入荷しました、キノコと一緒に・・・。
キノコの話はちょっと関係が無いので、置いておいて・・・、今回は含まれていませんが、スウェーデンのビンテージクロスを見ると、しばしば「ULLAS」とサインがあるのをご存知の方もいらっしゃると思います。
以前入荷したULLASの作品の写真が残っていました。この可愛らしいピローをフクヤ通信でご紹介したのは2008年のことです。懐かしいですね。
2008年1月11日の記事

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この「ULLAS」さんですが、随分前から気になっていたのですが、どういった方なのかさっぱり分かりませんでした。2007年に雄出版から発売された「北欧のかわいいプリントファブリック」の巻末でも”詳細不明”と紹介されています。

ところが、ひょんなことからこのULLASさんが誰なのか、分かりました。そして、とても残念なことに、昨年(2009年)の7月に肺癌で73歳でお亡くなりになっていたことも・・・。
そのULLASさんについて彼女の息子さんが手記を書いていらっしゃいます。これからご紹介するのは息子のPeterさんとHansさんによるお母様の思い出です。許可をいただいてご紹介します。


母は今年(2009年)の7月10日、肺癌からくる合併症でSahlgrenska病院で、73歳で息を引き取りました。母が亡くなる数週間の間に、母から聞いた話をお伝えします。
私と兄はネットオークションで母のデザインしたhandduk(スウェーデンのキッチンで使う装飾を兼ねた目隠し布のこと)が売られているのを見たことがきっかけで、半年ほど前から母の作品を集め始めました。
私たちはまた、母と彼女の夫であるJarlが引っ越したときにも多くの作品を譲り受けていました。それらは彼女がデザインした多くの作品がプリントされ、サンプルとして全て受け取っていたものが長年の間に随分とたまってしまったのではないかと思います。
数ヶ月前、コレクターの方が母の作品が日本の本に出ていると教えてくれ、一冊分けてもらいました。母の作品の一部が日本語で紹介されているのを見ることはとても楽しく、日本の方々が母の作品を持っておられれるということも嬉しく思っています。*たとえ彼女の名前が誤りのまま紹介されていても。
*「北欧のかわいいプリントファブリック」では「Ulla Grevér」となっている。

ここからが母が話してくれたことです。
母は1959年から1988年までフリーランスのデザイナーとして働いていました。サイン「ULLAS」の最後の文字「S」は、母の名前「ULLA」に結婚前は苗字のSvenssonから、結婚後は新しい苗字のScheuerのイニシャルをつけたものです。
母はほとんどの仕事を、私と兄が走り回っている家のキッチンテーブルで行っていました。私たちは幼稚園には行かない世代でしたが、インテリアデザイナーの父の収入で安定した生活も出来ました。母は同じパターンの色違いを作るときは、元の絵をトレースし、あちこちにカラーで点を描きました。そして、点で絵を埋めるのを私と兄が手伝ったものです。
母はイェーテボリのアートスクールを卒業後、1959年にメルンリュックの会社で1年ほど仕事をしました。その後、イェーテボリのHisingenにあるテキスタイルメーカー、Stildukar社にコンタクトを取りました。そこは母のタペストリーを一番多く作った会社です。また、イェーテボリ近辺の他のテキスタイルメーカーにもデザインを提供していました。いつも母は2、3の異なったイメージでデザインを用意し、家にやってきたStildukar社などの企業と製造について打ち合わせをしていました。彼女は通常は家で働いていて、ごくたまに作品を見せに外出していました。
「私はあなたやお兄ちゃんを打ち合わせに連れて行けなかったの。だから代わりに担当の人が家に来たのよ。」
母は1988年まで精力的に仕事をしていましたが、離婚がきっかけで別の仕事、例えば家政婦や調理人、あるいはベビーシッターといったものを捜さざるを得なくなりました。
この7月に母と話したとき、彼女は「鮮やかな空想力があったから、アイデアを捜し求めたことは無いわ。モチーフはいつも自分の中から湧き上がってきたのよ」と話していました。
彼女はありとあらゆるテキスタイルから、「Tuggvänliga」というベビー雑誌のためにプレイスマットや下着、それにクリスマス用のプレゼントを入れる靴下までデザインしました。
スウェーデンで最初に大きなクリスマス用の靴下をデザインしたのは彼女なんです。
母は亡くなる何年も前に再婚しましたが、離婚した1988年から亡くなるまでの間は、残念ながら良い事だけでなく、悪い事もありました。けれども、いつも忍耐力で直面した問題に打ち勝っていきました。今回もそうであって欲しいと皆が願っていました。けれど、残念ながら・・・。
彼女の晩年の数年間は孫や友人、知り合いのためだけに絵を描いていました。また気が向いたときに筆を持ち何枚かの絵を描いたりもしていました。
母は仕事において一種の逆転の人生でした。若かった彼女がデザインした作品はブレイクし、有名になるものの、その後徐々に忘れられてしまうのです。最も輝いていた頃の彼女の存在は、北欧中で知られていました。それが今では、昔のものとして、ネットオークションで見られるようになり、テキスタイルの流行に敏感な人々のものとなっているのです。
近年母は、母が活躍していた時のように、遠近画法とは程遠い平面な絵を毎日描いていました。
「遠近法を理解したことはないわ」と母は言い、毎日遠近画を描いては、私に電話をよこし、同じ台詞をこぼすのでした。
私たちの母がどういう人だったのか、何をしたのかを他の人たちに知って欲しいと思っています。
イェーテボリ
Peter Scheuer / Hans Scheuer


ここまでが、息子さんの手記です。溢れる才能を持ちながら、生活のためにキャリアを断念せざるを得なかったUllaさん。その母を惜しむ息子さんの愛情が伝わってきます。
この手記は、スウェーデンのブログ”Re-Dizain”に寄せられたものです。このブログではビンテージのコレクション、特に布を沢山紹介されています。ULLASに関する記事を日本で紹介したいと、書き手のNoaさんにコンタクトをとったところ、息子さんの「母の事を他の人にも知って欲しい」という意思に従い、快く承諾してくださいました。
いつかビンテージクロスに関する本を出したい、というNoaさんの素晴らしいコレクションはこちらからご覧下さい。ビンテージクロスを使った、手作りのアイデアもいっぱいです。
RE-DIZAIN

また、今回はスウェーデン語を最初にGoogle自動翻訳で英語に訳し、意味の通らないところをNoaさんに修正してもらったものを日本語に訳し、その日本語訳を更にNoaさんの友人である、スウェーデン在住の日本人、Iさんに訂正していただきました。
間に北欧の夏休みを挟んだり、3者間のメールのやり取りが上手くいかなかったりと、少々もたつき、最初にNoaさんにコンタクトをとったのが6月の初めですから、今日ご紹介するまで2ヵ月半かかってしまいました。
ご協力いただいた、NoaさんとIさんにこの場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
最後に以前フクヤでご紹介したことのある、Ulla Scheuerさんの素晴らしい作品をご覧いただき、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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最後のニワトリは個人的にとても気に入っているので、フクヤの新着ページで使わせていただいています。

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母がどんな人か知って欲しい・・・Ullasの話」への2件のフィードバック

  1. PeterさんとHansさんによる母への愛情こもった文章が心に沁みました。ミタさん、ソフィアさん、Iさん、素晴らしい手記をていねいにご紹介してくださってありがとうございます。そして何よりも今は亡きULLASさんにありがとうを言いたいです。我が家にも何点かULLAS作品があります。大事にしようと思いました。

  2. >>k7さま
    本当にソフィアさんとIさんにはお世話になりました。ULLASさんの布は私もこれからは大切にコツコツ集めようかな、と思いました。
    息子さんはお母様のことをもっと多くの方に知って欲しいと思っていらっしゃるので、これを機会に彼女の人生が日本のファンの方たちにも広く認知されるといいですね。

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