あるガラスメーカーの栄光と衰退


おはようございます。
クリスマスに入荷した商品にはこの写真の花瓶、Palaの紫色と緑色があります。前回入荷したものよりも一回り小さいサイズで、切花を飾るのにはちょうどいい大きさでしょう。
メーカーはRiihimaen。1990年に幕を閉じ、現在はもう存在してないフィンランドのガラスメーカーです。
フクヤは取り扱っている商品がビンテージ品なので、このように既に廃業しているメーカーが多くあります。30年、40年、中には半世紀以上も残り、コレクションされるような製品を作りながら、何故、現在はもう存在していないのか。
単純にそこが知りたくて、歴史を紐解くと、ほとんどの場合が「経営の失敗」に尽きることが分かりました。どんなにすばらしいデザイナーがいても、どんなにすばらしい技術を持っていても、経営判断を間違えた為に消えていったメーカーが本当に多い。
このRiihimaenもそのために消えて行ったメーカーのひとつです。商品ページにも解説をつけましたが、ドラマチックに展開する、その歴史は大変面白く、書ききれない部分も沢山ありました。
商品ページの解説と重複する部分もありますが、ここではもう少し詳しく書きますね。とても長いですが、(それでも全部ではありません)お正月の読み物としてどうぞ。
Riihimaenは1910年に、Kolehmainen親子が数人の技術者とフィンランドで始めたガラスメーカーです。最初は57名の従業員と共に単純な形の実用ガラス器から始めました。
やがてアートガラスの製作を手がけ始め、1912年、建築家のOiva Kallioがブランドロゴマーク(あの獣が片手を挙げているやつですね)を作成。1914年、初めてその製品が受賞し(どの展覧会であったかははっきりと分かりませんでした)、その後、バルセロナ、アントワープ、ブリュッセル、ミラノ、パリの展覧会でも受賞を重ねていきます。
技術開発にも熱心で1916年、父Kolehmainenの設計したガラス瓶製造機はガラス製造機として、フィンランド初の特許をとります。この発明は2千年もの間、手作りであったガラス製作にピリオドを打つものとなりました。(一部手作業があるものでしたが)
1920年代の不況時には、通常3日かかるガラスの冷却時間を2時間にするといった技術開発によって乗り越え、1930年代にはガラス瓶製造の完全機械化に成功。会社は発展しつづけ、この間に他の会社を吸収合併し更に拡大します。
1930年代の半ばには、フィンランドのみならず、ヨーロッパでも技術面で最高の工場に発展。このころ1937年に社名をRiihimaen Lasi Oy(有限責任会社という意味)に変更します。
1940年代の第二次世界大戦の時には工場に爆撃を受け、大きなダメージを受けます。しかしこれも、戦争の爆撃によって街の建物の窓が割れ、窓ガラスの需要が伸び、工場をすぐに再開、この危機を乗り越えます。
1950年代、アートグラスと家庭用ガラス、工業ガラスの製造を手がけていましたが、特に完全機械化された家庭用ガラスの製造数をどんどん伸ばしていきます。
1960年代に家庭用ガラスの製造は、Riihimaenの主な事業となっていきました。そうして1920年代から1960年代までは、フィンランド最大のガラスメーカーとなったのです。
ところが、その栄光に影が差し始めたのが、1970年代。
海外から(もしかして日本からも)安価な家庭用ガラス製品が輸入され始めます。既に製品のほとんどを家庭用ガラスに絞っていたRiihimaenはどこよりも打撃を受けることととなりました。更にオイルショックが追い討ちをかけ、Riihimaenの経営者は決断を迫られます。
当時のCEOの決断は「アートグラス部門の廃止」でした。その決定により1976年、アートグラスの製造中止。
同年、前回ご紹介したTamara Aladinも、このPalaのデザイナーであるHelena Tynellも、もちろんGrapponiaなどをデザインしたNanny Stillも同社を去りました。なんだか切ないですね。
話は変わりますが、Helena TynellとNanny Stillは舞台を変え活躍し続けますが、Tamara Aladinはその後デザインの歴史から消えてしまいます。
個人的な感想なのですが、Tamaraはあまりデザイナーという仕事にこだわりがなかったのかも知れません。なにしろ、アートスクールを出ながら最初に選んだ職業はスチュワーデス。
美大時代の同級生でも、傍から見たら才能があり、どうして絵を続けないのかともったいなく思うのに、あっさりと別の道に行く人がいました。Tamaraもそのタイプだったのかも知れませんね。
一方、同じくフィンランドのガラスメーカーであるIittalaの経営陣の決断はその逆でした。力のあるデザイナーを擁し、アート性を打ち出すことによって、安価な輸入製品に対抗しようとしたのです。
そのデザイナーの一人であったKaj Franckは「アートとデザインの間に結びつきがある」という信念をもっていたので、まさに適任といったところでしょう。
ところで、そのKaj Franck、「デザインは残ってもデザイナーの名を残すべきではない」と、デザイナーの無名性についても語っています。今もIittalaが行っている、デザイナーの名を前面に打ち出す、この方針に対しては彼なりに言いたいことがあったのかも知れません。
さて、フィンランド国内の人件費の高騰もあり、Riihimaenの判断は益々同社を追い込み、ついに1990年、その長い歴史の幕を閉じたのでした。
これは、Iittalaなど他のメーカーは経営のプロフェッショナルが経営陣であったのに対し、Riihimaenが親族経営の会社であった、ということも見通しの甘さの原因であったようです。
けれども、すべては今だから言える事。当時にしてみればどの判断が勝ち残るかなど、誰にも分からなかったでしょう。もしかしたら逆にIittalaが廃業していたかもしれない。
今、日本は不況といいます。歴史を見返すと、ある経営判断が長く続いた事業をだめにすることがある。いまその地点に立っている方たちが数年後振り返って、よい決断をしたといえるようになれば素晴らしいですね。

長々と読んで頂きありがとうございました。高校時代の一番好きな科目は歴史でした。なにせ、下手な小説より面白い。

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あるガラスメーカーの栄光と衰退」への1件のフィードバック

  1. 古き良きフィンランドの花器
    もうすぐ高貴なアンティーク?
    「Pallki」 Designed by Helena Tynell(お買い上げのお店から拝借)
    1900年初頭に台頭したフィンランド最大の
    ガラス製品メーカー、「Riihimaki社」
    このリーヒマキが輩出した代表デザイナーの1人…

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