しずく堂さんのこと・・・どんなに強く願っても

夢の中でしずく堂さんが「あたし、病気が良くなったんだよ。よっちゃん、知らなかった?」と言い、目が覚めてから、これが現実だったらどんなに良かったかと、ベッドの上でさめざめと泣いた朝があります。

私の大好きで大切な友人であり、人としても、才能あふれるニットデザイナーとしても心から尊敬していたしずく堂さんが、長くつらい闘病生活の末、2025年6月11日に永眠しました。

初めて彼女から、治療の難しい病気にかかったと聞かされたのは、2019年の7月のことでした。こんなにも才能があって、創作活動が世に知られはじめ、これからますます人気作家になっていくはずの人が……どうして彼女なの?どうして今なの?

あまりのショックに、いっそ病気になったのが私だったらよかったのにと、一人になってから声をあげて泣きました。それからは毎日、病が良くなるよう祈り、いくら願っても叶っていないことに涙が溢れてくるのですが、彼女の前では病気のことを意識させたくなく、泣いた姿は見せないようにしていました。

いつか来るその日を想像し、そのときは自分が知らせを書くことになるかもしれないと思い、追悼文では、あの愛らしく美しい作品の裏で、彼女がどれほど努力していたかを、闘病中は痛みや薬の副作用、そして死の恐怖と闘いながらもそれを決して表に出すことなく、素晴らしい作品を生み出し、メディア出演やワークショップを力いっぱい続けていたことを、きちんと書き記そう。

作家としての姿だけでなく、友人として、ユーモアと心遣いにあふれ、一緒にいる時間がどんなに楽しかったかを、沢山のエピソードを交えて書こう。

そんなふうに考えながらも、その日が来ないことを、心の底ではずっと祈っていました。

10年後、15年後、20年後、30年後に「実は追悼文を考えていたんだよ」と言う未来も想像していました。そうしたらきっと彼女は「そんなが!」と富山弁で驚いて、「心配かけたねー、ごめんねー、よっちゃん」と、あの富山のイントネーションで言うのでしょう。私は「本当だよ!」と怒ったふりをしてから、「それにしても良かったよねー」と一緒に笑い合うのだと。

今回の北欧旅行も、しずく堂さんと行くはずでした。最初の彼女からの提案は5月15日出発でしたが、私が14日に万博の仕事があり、スケジュールを6月2日に変更。それからはいつも通り、二人で航空券を予約したり、ホテルを選んだり、会いたい人に連絡を取ったり。「ヘルシンキ滞在を週末にして蚤の市に行きたい!」「スウェーデンは建国記念日と重なるからイベントに参加しようよ」と、今年も美しい初夏の北欧を楽しもうと計画を進めていました。その一方で、病状の進行が早くなっていたのが感じとれたので、心の中では不安が膨らんでいくのですが、彼女には見せないように心がけていました。

そして、しずく堂さんから「ドクターストップで北欧に行けなくなった」とメッセージを受け取ったのは、5月14日、万博の会場にいたときのこと。

地元の友人たちが緊急に25日からの作品展を企画し準備を進める中、5月22日に入院。連絡を取って、この日がいいと言われた26日にお見舞いに富山まで。病室の彼女に「15日から北欧に行っていたら大変だったかもね」と明るく声をかけた時に、返って来た言葉が「うん、あたしは本当に運がいいよ」。

運がいいわけないじゃないか!

頭を殴られたような気持になり、彼女の前で初めて泣きました。背中向きに、気付かれないように、こっそりと。

「よっちゃん、泣かないでよ」
「泣くよ」

そうだよ、あれから毎日泣いているよ。

嬉しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、腹が立ったとき、真っ先に話したいと思うのは、しずちゃん、あなたなんだもの。

面白いものを見つけたとき、楽しそうなイベントを知ったとき、真っ先に頭に浮かぶのはあなたなのに。そのたびに、もういないのだと息が苦しくなって、涙が出てくる。

これが夢だったらどんなに良かったか。

ねえ、どうしてしずちゃんでなく私が生きているんだろう。私が迷ったり悩んだりしていたらいつも答えてくれたじゃないの。しずちゃんの声が聞けないのが信じられないよ。

結局、あのとき何度も頭の中で想像していたような追悼文、落ち着いて冷静な文章を、今はどうしても書けそうにない。返事がもらえない問いを繰り返すことだけで。

答えは分からないままなら、せめて、しずちゃんに恥ずかしくないよう毎日を生きようと思ってる。あなたが見せてくれた、努力し、創造し、人に与え、前に進む生き方を大切にしようと思ってる。だから見ていて。

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