
6月の北欧ひとり旅。8日目のフィンランドでのお話。
この日は、フィスカルス在住の日本人フェルト作家・坂田ルツ子さんに、フィスカルス村を案内していただく約束をしていました。ずっと楽しみにしていた予定です。
ところが、前日の夜になって、いよいよ体調が悪くなっていることを自覚しました。熱はない。体の痛みもない。でも、声が完全につぶれてしまったのです。
喉が痛いわけでもなく、ただ声が出ない。ささやき声すら怪しい状態で、「これは人と会って話をするのは無理かもしれないな……」と、ベッドに横になりながら考えていました。
楽しみにしていた約束だけれど、この状態でご迷惑をかけるわけにもいかない……。
迷った末、夜のうちに「体調が悪く、明日の約束をキャンセルさせてほしい」と連絡を入れました。送信ボタンを押したあと、ああ、次はいつフィスカルスに行けるのか分からないな……と考えていました。
翌朝、のんびりと起きて、今日は一日休息かなと宿泊していたアパートメントホテルのキッチンへ向かい、お湯を沸かそうと棚に目をやると、ふと、そこに置いたままの米麹の袋が目に入りました。
そうだ。これは、ルツ子さんに頼まれて、日本から持ってきたもの。前日の夜、渡し忘れないようにと、あえて目につく場所に出しておいたのでした。それが今、キッチンにぽつんと置かれています。
もし今日会わなかったら……私はフィンランドに米麹を持って行って、米麹を持ったまま日本に帰る人になる。そう思った瞬間、これは行くしかないと腹をくくりました。
今から急いで身支度をして宿を出れば、最初に予定していた9時35分ヘルシンキ中央駅発の長距離電車に間に合う。すぐにスマホを手に取り、ルツ子さんに 「やっぱり行きます。電車に乗ったら連絡します。」とメッセージを送りました。
次のミッションは喉の薬。声が出ないまま一日過ごすのはさすがに不安で、近くの薬局をネットで探します。すると、なんとも幸運なことに、徒歩圏内の薬局が8時半開店と判明。
時計を見る。今から30分以内に身支度を整え、開店と同時に薬局に入り、喉の薬を買う。そこからトラムに乗れば……一気に頭の中で行程が組み上がりました。
「よし、行ける」
声は出ないのに、身体だけは急に機敏になって、身支度を始めます。 洗顔と歯磨きをしてメイク。コート、バッグ、スマホ、そして、忘れてはいけない、あの米麹。
棚から米麹の袋をバッグに入れながら、「これを忘れると洒落にならない」と、心の中で何度も確認。米麹をフィンランドから持ち帰る状況は、どうしても回避しなければ。
ホテルを出る前にスマホでフィンランドで買える喉薬を検索して画像をスクショ。薬局には開店と同時に入り、薬の画面を見せて無事購入。そのままトラムの乗り場へ向かい、来たトラムに乗りました。
フィスカルスへの電車チケットは、トラムに揺られながらスマホで購入。この旅行記では、何度も「何もかもがスマホのアプリになってしまった」とぼやいてきましたが、こういうときばかりは心から思います。
スマホで何もかもできる時代に感謝!
9時前にヘルシンキ中央駅に到着。まだ時間があったので、朝食を買おうと駅構内のキオスクに。美味しそうな菓子パンなどがあったのですが、せっかくフィンランドに来たのだからフィンランドらしいものにしようとライ麦パンのサンドイッチと水を買いました。

こうして私は、声を失ったまま、フィスカルスへ向かう電車に乗り込み、ルツ子さんが車で迎えに来てくださる目的地のKarjaa(カリヤー)駅に向かいました。

所要時間はおよそ1時間。電車が動き出した瞬間、ようやく肩の力が抜けました。ここまで来たら、もう大丈夫。しばらく走ると今の日本では見なくなった車内販売が。こんなことならキオスクで買わなくても良かったなあとちょっと後悔。

窓の外を流れる緑をぼんやり眺めながら、声が出ないことも、朝の慌ただしさも、少しずつ遠のいていきました。
Karjaa駅で無事にルツ子さんと再会できたときは、心の底からホッとしました。ちなみにフィスカルス村へはアクセスがあまり良くなく、Karjaa駅からは本数の少ないバスを利用するのが一般的です。時間を合わせるのもなかなか大変なので、こうして迎えに来ていただけるのは本当にありがたい。そこから車で15分ほど走り、緑に囲まれたフィスカルス村へ。途中、日本から来ているルツ子さんのお友だちで、人形作家のお二人とも合流しました。
憧れていたフィスカルス村は、実際に訪れてみると、意外にも私が長年思い描いていた「小さな工房が点在する素朴な森の中の村」とは少し違っていました。そこは、レンガ造りの大きな建物が立ち並び、カフェやレストラン、ショップが揃った、コンパクトながらも整った“小さな町”。

まずはルツ子さんの案内で、アクセサリー作家さんの工房兼ショップへ。どの作品も力強く、とても魅力的だったのですが、ひときわ目に留まったのがカレリアンピーラッカのピアスでした。

本物のカルヤランピーラッカを型取りして、小さく再現したものだそう。「これで最後の1点ですよ」と言われ、その一言に背中を押されて購入。次に本物のカルヤランピーラッカを食べるときには、これを着けようと心に決めました(日本ではなかなか機会がありませんが!)。

その後も、ギャラリーやショップを順番に訪ね歩き、個性的で魅力あふれる手芸や工芸作品、ジュエリーの数々を作家の方も含めて紹介していただきました。

ただ、この日は体調がかなり落ちていて、写真をほとんど撮れていませんでした。

記録は残せなかったけれど、繊細な作品、ユニークなフォルムの作品、色彩の美しい作品の数々が記憶にしっかり刻まれています。

フィスカルス村は、工芸作品の魅力だけでなく、個性的なお菓子やコーヒーを作っているお店があるのも特徴です。ショップでは試食をさせてもらえることも多く、少しずつ味わいながら歩くのも楽しい時間でした。体調は正直あまり良くなかったのですが、「これは美味しい」「これは面白い」と、味覚を楽しんだ時間でした。

そして、ルツ子さんの案内でレストラン「Kuparipaja」へ。

ここでいただいたランチが……もしかしたら、今回の旅で一番おいしかったかもしれません。ランチには取り放題のサラダが付いていて、体調が万全だったら、もっと色々食べられたのに、と少し悔しくなるほどでした。


食後は、ルツ子さんが「フィンランドでいちばん美味しい」と断言するシナモンロール(コルヴァプースティ)があるカフェへ。さすがにお腹はいっぱいだったので、その場では食べずにテイクアウトすることにしました。紙袋に入れてもらったシナモンロールは、見ただけで「絶対に美味しい」と分かる佇まい。これを後でゆっくり食べる楽しみがあると思うと、なんだか気持ちが少し晴れやかになりました。

この日は6月10日。ルツ子さんは、6月15日から始まるフィスカルス村の作家たちによる合同展の準備の真っ最中でした。そんな忙しい時期にもかかわらず、特別に展示会場に入れてもらうことに。

会場は、元工場だった(かな?)建物を利用した天井の高い広々とした空間。

すでに展示を終えて静かに佇む作品もあれば、まさに展示作業の真っ最中という作家の姿もありました。開催前ならではの、少し浮き立つようでいながらも張りつめた空気が漂っています。






ルツ子さんの展示は、日本の茶室をイメージした空間。木で組まれた箱に、壁としてルツ子さんがフェルトで描いたフィンランドの森の布が静かに垂れ下がっています。

その中には、ルツ子さんのパートナーである家具作家、カリ・ヴィルタネンさんの椅子とテーブル。そして、すでに鉄瓶がひとつ置かれ、あとは訪問客を待つばかり。

まるで時間がゆっくりと流れているような、静謐な空間でした。
気づけばもう17時過ぎ。最初は15時ごろには失礼するつもりだったのに、日の長いフィンランドの夏にすっかり時間の感覚を奪われていました。再び駅まで送ってもらい、名残惜しくもフィスカルスを後にしました。
Karjaa(カリヤー)駅からヘルシンキへ戻る長距離列車は指定席。ようやく座って一息……と思ったその瞬間、通路を挟んだ隣の席に見覚えのある顔が。
なんと、前日に参加したフィンランド料理教室で一緒だったアメリカ人のご夫婦でした。まさかこんなところで再会するとは。しかも指定席なのに!思わず顔を見合わせて笑ってしまい、短い会話を交わしてそれぞれの席へ。ちょっと嬉しい偶然でした。
ヘルシンキ中央駅に到着し、あとはトラムで宿に戻るだけ……のはずでした。
ところが、トラムに乗り込んだものの、待てど暮らせど一向に動かない。疲れていたのでそのまま座っていたのですが、30分以上経っても状況は変わらず、さすがにおかしいと思って降りようとしている観光客らしい乗客に尋ねてみると、デモが行われていて、道路が封鎖されているとのこと。バスもトラムも完全にストップしているらしい。

車内アナウンスがあったのかもしれませんが、少なくとも私の耳には届かず、「これぞフィンランド……」と半ば呆然。デモは環境問題に関する活動団体によるものでした。環境を守ることの大切さは理解しているつもりだけど、人に迷惑をかけてはいけないよねと、体調が万全でない身にはなかなか堪えて、毒の一つも飛び出します。

ここで再び頼りになるのがスマホ。Googleマップで調べると、地下鉄で移動し、最寄り駅から12〜13分歩けば宿に戻れると判明。仕方なくトラムを降り、地下鉄へ向かいました。途中、デモに参加していた人たちが警察官に次々と連行されていく様子も目に入り、なんとも言えない気持ちに。

いつもなら気にならない距離なのに、最寄駅からの徒歩が、本当に長く感じました。へとへとになって、ようやく宿に到着。
部屋に入って荷物を下ろし、「あ、そうだ」と思い出したのが、フィスカルスで買って持ち帰ったシナモンロール。昼間は食べる余裕がなかったけれど、このタイミングでひと口かじると、じんわり甘さが広がって、思わずため息。美味しかったです。
体調は最悪だったけれど、ルツ子さんのお陰でフィスカルスで過ごした時間は楽しく、帰り道のハプニングも含めて、強く記憶に残る一日でした。ただ思い残す事もなくはなく、フィスカルスへはいつかまた体調が良い時に、出来れば1泊して過ごしたいなと夢を見ています(この円安ですからちょっと躊躇しますよね!)。さて、いよいよ翌日は北欧旅行最終日です。